洋書レビュー

Naomi Klein 『Doppelganger(ドッペルゲンガー)』感想・レビュー | アイデンティティと陰謀論

どうも、コンカズ (@konkazuk) と申します。


今回紹介する本は、作家・政治評論家・ジャーナリスト、そして環境活動家として、現在の気候危機や世界的な人権侵害といった問題に取り組み続けているナオミ・クラインさんによる『Doppelganger』


僕は若い頃「物事のbright sideを見ながら生きていこう」みたいなことを、よく耳にした記憶があるのですが、最近になって、その考え方には別の側面もあるのではないかと思うようになってきました。


「ポジティヴ思考」という言葉が広がる一方で、不幸な出来事や自分にとって都合の悪い現実には目を向けず、前向きに生きようとする価値観が現代社会に広く浸透しました。


その結果、多くの人が社会の問題を直視しなくなり、「誰かが解決してくれるだろう」と考え、自分は自分の人生だけを前に進めればいい、という姿勢になってしまっているように感じています。


しかしながら、物事には必ず表と裏があって、自分にとって不都合なことは、裏側にいる誰かにとっては利益になることもあるのでは? と。


都合の悪い現実から目を背けている間に、その「裏側」は富や権力を蓄え、影響力を拡大していく。一方で、私たちは個人の目標ばかりを重視するようになり、コミュニティーとしてのつながりを失っていくことで、気づかないうちに無防備になっていく。


そして、自分たちの「bright side」が少しずつ縮小していることにも気づかないまま、大きくなった「裏側」の力に翻弄され、騙されていても十分に対応できない状態になっている。


この本は、まさにそのような現代の社会や政治のあり方を、心理学的な視点から考察したノンフィクションです。



正直言って、これまでの人生で読んだ本の中で最も感動すると同時に、最も深く考えさせられた一冊でした。



是非ともたくさんの人に読んでいただきたいです。


もう一人のナオミ

ネットで “Naomi Klein” を検索すると、同じ “Naomi” という名を持った別の人物 “Naomi Wolf” が出てくる。

ややこしいことに、そのナオミ・ウルフも、この本の著者であるナオミ・クラインさんと同様に著名な女性作家であり、政治や社会について発言してきた人物なのですが…


二人の政治的な立場や思想は大きく異なります。



ネットの世界では、二人の名前がよく混同され、著者のナオミさんの発言だと思われているものが、実際はもう一人のナオミ・ウルフの発言だったり、逆に著者の言葉が、ナオミ・ウルフのものとして扱われていたりする。

そして、この「名前の混同」が繰り返されると、アルゴリズムによってそれが次第に固定されていく… 。自分が、自分とは違う考えを語り、本来なら自分が決して支持していない政治的立場にいる人物として認識されてしまうことになる。


個人的な感情や推測をもとに意見を拡散するナオミ・ウルフは、ジャーナリストとして自分の発言に偽りがないように入念に調査し、裏付けを取ってから発表する著者とは正反対な存在なだけに、このネット上で起こる「自分が誰であるかを自分だけでは決められない」という状態は、著者を悩ませ、ひどく傷つけます。


そして、二人の関係はまるで鏡の表側と裏側の世界のようになっている。



これは「著者ともう一人のナオミ」という二人の個人だけの関係ではなく、現代社会の状況や歴史上の出来事を追求していくことで、世の中の様々なものが、実はこのような「裏と表」の関係になっていることが浮かび上がってきます。

さらに現代社会では、ネット上で生まれた勘違いや混同が繰り返されることで、はじめは鏡の表の世界にいた人たちが、それが自分にとって良いのか悪いのかを考えることもなく、いとも簡単に裏の世界に移り住んでいってしまう。



私たちは、そんな危険な状態に置かれているのです。



「陰謀論」の世界

image by Tom Barrett

誰もがそういう部分を持っていると思うのですが、私たちは、複雑で理解できない出来事に直面した時、そこに意味やパターンを見つけようとする傾向があります。



するとその出来事は、偶然や複数の要因が重なって起こったのではなく、

実は誰かが意図的に仕組んだのでは?


という考えが浮かんできたりします。




そこで生まれるのが、

陰謀論 = Conspiracy theory

と呼ばれているもの。

そして、ここでさらにややこしくなるのが、個人主義が強まった現代社会において、多くの人が「自分は意味ある存在」でありたい、「人から注目されたい」という強い欲求を抱えていることです。


そうした中で、ある人が陰謀論的な解釈を思いつき、それを社会に対して同じような不満や不信感を抱いている人々に向けて発信していくと、複雑で理解しにくい現実を一つの分かりやすい物語として説明してくれるその考えに、多くに人が引き込まれ、誤情報や偽情報がさらに広がっていきます。


すると、それによって社会に混乱が生まれ、人々の関心がそちらへと引き寄せられていきます。

その結果、私たちの生活や人類の将来にとって本当に重要な問題について話し合うためのスペースが、そうした情報によって覆い隠されてしまうという状況に陥るのです。



かつてはフェミニスト作家として知られていたナオミ・ウルフは、COVID-19のパンデミック以降、ワクチンに関する根拠の薄い、あるいは誤解を招く情報を自身のプラットフォームで積極的に発信するようになりました。


そして、著者が本の中で描いているように、ワクチンに関する陰謀論的な情報を広める人々とも接点を持ち、COVID-19ワクチンや公衆衛生対策に対する強い反対を訴えるようになっていきました。



問題は、そこからワクチン接種というものが、単なる医療や公衆衛生をめぐる問題ではなくなっていったことです。


たとえばワクチンパスポートについて、ナオミ・ウルフは、それが人々の行動を監視・管理するための仕組みとなり、最終的には中国型の社会信用システムのようなものにつながるのではないか、と警告しました。


そして、ワクチンパスポートは「一般人を永遠に奴隷化する仕組み」になり得るという、さらに強い主張へと発展していきます。

こうして「ワクチン接種」や「ワクチンパスポート」が、政府や製薬会社、国際機関、メディアなどが結びつき、人々の自由を奪い、「社会を専制政治へと導こうとしている」という、スケールアップした物語の一部として語られるようになっていったのです。



こうなってくると、ワクチンに反対することは、単純に一つの医療政策に反対することではなく、「自由を守るために権力に立ち向かうこと」として意味づけられていきます。


その結果、COVID-19をめぐる複雑な問題は、いつの間にか「自由を守る人々」と「自由を奪おうとする権力」という構図へと置き換えられていってしまいました。



自分たちは、ワクチン接種やマスクの着用、行動の制限といった政策に反対しているだけではなくて、人類を支配しようとする「専制政治」に抵抗しているのだ!となってきてしまうのです。

しかし、こうなってくると現実的な影響も出てきます。


ワクチンや公衆衛生そのものに対する不信が広がれば、COVID-19ワクチンに限らず、これまで多くの命を救ってきたワクチン全般に対する不安や疑念が広がってしまう可能性があります。

実際、近年では世界各地で麻疹などの、ワクチンによって予防できる病気が、ワクチンを拒否することによって再び広がってきているというニュースも見られます。


もちろん、その背景にはさまざまな要因があると思いますが、誤情報の拡散によって生まれたワクチンへの不信も、その一つとして指摘されています。


つまり、「自由を守るための反乱」として始まった運動が、皮肉なことに、人々を実際の感染症の危険にさらしてしまう可能性もあるのです。

もともと大衆が向けていた実際に存在する大企業の力や政治的な不平等に対する不安や怒りが、陰謀論によってつくられた幻想的な巨大な敵との戦いへと向けられることで、社会はさらに混乱に陥り、分断をさらに深める結果になってしまうわけです。



左右の境界を斜めに越えていく人たち (diagonalists)

image by Sasha Kaunas

私たちは政治的な立ち位置を考える際に、「左」や「右」といった言葉を使います。

一般的に、左派は社会的・経済的な平等や、人々の間にある格差を減らすことを重視し、右派は個人の自由や伝統、国家や既存の社会秩序を重視する傾向があります。



もちろん、現実はそれほど単純ではないのですが、私たちはこんな感じで、まず二つの対立する陣営を思い浮かべると思います。



では、その境界を、左から右へと徐々に移動するのではなく、思いがけない形で越えていく人たちがいるとしたら、どうでしょうか?


この本を読んで、僕が一番ショックを受けたのが、こうした現象です。

それまで左側にいた人々が、社会に対する不満や不信感を入り口として、これまで支持していた政治的な思想とは反対側の世界斜めに移動していってしまう現象です。




その背景には、現代社会に実際に存在する問題があります。

巨大企業に富や権力が集中していること。

一部の富裕層が政治に大きな影響力を持っていること。

メディアと企業や資本との間に、さまざまな利害関係が存在すること。


そして、自分たちの生活が、自分たちの手の届かないところで決められているように感じること… 。


こうした問題への不満や不信感には、現実に存在する問題が背景にあります。



しかし、そこに別の物語が入り込んでくることで、その不満や不信感が、まったく別の方向へ向けられていくことがあります。

「本当は、すべて裏でつながっているのではないか?」

「自分たちは、何か巨大なシステムによって騙されているのではないか?」

この複雑な社会の問題が、こうした分かりやすい物語として発信され、それが、もともと社会に対する不満や怒りを抱いていた左側の人々のもとに届いたとき、一部の人々はそこへ引き寄せられていってしまうのです。




そして、こうした人々が政治的な境界を越えていく背景には、「注目」や「承認」、そして「自分の居場所を求める気持ちも関係しています。


現在は、SNSを通じて誰でも自分の意見や経験を直接発信できる時代です。

自分自身をブランド化することや、多くの人に自分の声を届けることが、一つの価値にもなっています。



たとえば、健康やフィットネスを発信する人々の世界でも、注目を集め、自分の影響力を大きくしたいと考える人々がいます。


それ自体は別に何も悪くないのですが、はじめは健康や自己改善について発信していた人が、そのうちに自分自身が持っている政府やメディアへの不信感についても語り始めることがあります。

「自分は重要な存在でありたい」「自分の声を聞いてほしい」といった気持ちから、次第に社会的な影響力を持つことを求めるようになる人もいます。そして、SNSを通して注目や承認を得るようになり、自分の意見が歓迎されるようになると、そこが次第に自分の居場所になっていきます。



そして著者が本の中で追っていくSteve Bannonの(トランプの元側近)ような右派ポピュリストは、こまで右派とは関係のなかった人々や、既存の政治に居場所を感じられなくなった人々にも近づいていきます。


「あなたは自由のために声をあげている。なんて勇敢なんだ!」

「あなたは他の人が見ていないものを見ている。もっとあなたの意見は拡散されるべきだ!」



もし、そんなふうに言われたら、もともと政府や巨大企業、政治的な不平等に疑問を持っていた人々も、

「おお、自分は歓迎されている!ここが自分の居場所なんだ。」

となってしまうのではないでしょうか?



そして、はじめは現実に存在する問題に対する疑問として発信していた自分が、次第に別の方向へと進んでいき、気がついてみたら、かつて自分が批判していたはずの政治勢力と、同じ言葉を使って社会を語るようになっているのです。

ここで起きているのは、単純な「左から右への移動」ではありません。

承認を求める気持ちが強くなると、人は現実の問題に対する不満や不信感だけでなく、自分が注目や承認を得られる居場所を求める気持ちによっても、政治的な境界を越えていってしまうのです。


このように、ある問題への不満を入り口として、人々が政治的な境界を斜めに越え、別の世界、いわば「鏡の裏側」へと移動していってしまう現象が、本の中で「Diagonalism」として表現されています。


左側の分断

image by Amin Mlk

前のセクションでは、社会に対する不満や不信感を入り口として、それまで左側にいた人々が、思いがけない形で政治的な境界を越えていく「Diagonalism」について見てきました。



ですが、ここにはもう一つ、考えておきたい問題があります。 それは…

左側にいる人々自身が、お互いの違いを探しすぎることで、仲間を増やすどころか、自分たちを分断してしまうことです。



重要な意見の違いについては、きちんと議論し、向き合う必要があります。しかし、左側の一部では、ときに些細な言葉の使い方の間違いまで重大な問題であるかのように扱い、共通点よりもお互いの違いを目を向けるあまり、分裂していってしまう傾向があります。


これは、仲間を増やすためであれば、多少の違いには目をつぶり、共通する部分を重視する右側の姿勢とは対照的です。

本当は共通している部分がたくさんあるのに、違う部分ばかりに目を向けてしまうため、本来なら一緒に取り組めるはずの人たちまで、自分たちの側から閉め出してしまうのです。



そして著者は、戦略的に見て、こうした左側に見られる傾向は決して得策ではないと述べています。



なぜなら、私たちが仲間から締め出したり、切り捨てたりした人々やグループを、鏡の裏側の世界が待ち構え、彼らの勇気を称え、親身になって話を聞き、自分たちの仲間へと引き入れようとしているからです。



社会への不満や不信感を持っている人が、自分の側に居場所を見つけられなくなったとき、「あなたの考えを理解してくれるのは、こちら側だ」と受け入れてくれる別のコミュニティがあれば、そこへ引き寄せられてしまいます。


茶化される世界

image by brooke balentine

そして著者は、「鏡の裏側」の世界について、もう一つ別の問題を指摘しています。



それは、

何でも冗談の対象にされてしまうことで、本当に重要なことを話すための言葉が、力を失ってしまう事です。



ここ数十年の間に登場した、アメリカのドナルド・トランプやイギリスのボリス・ジョンソン、そしてロシアのウラジミール・プーチンなど、国民の生活のことなど気にもしない政治家たちが、ヨーロッパの植民地主義を批判したり、反ファシズムの伝統を守る「真実を語る人物」のように振る舞うと、人々の目に、政治そのものが、「滑稽なもの」として映ってしまいます。

そうやって、一度ある言葉や考え方が茶化されてしまうと、それをもう一度、真剣な言葉として使うことが難しくなってしまうのです。



たとえば、”othering”(他者化)という言葉がありますが、もともとこの言葉は、権力を持つ側が、特定の人々を「異質な存在」「劣った存在」として描いて、彼らを容赦なく差別、または排除したりすることを正当化する行為を説明するために使われてきました。


しかしSteve Bannonのような人物が、”othering” という言葉を使って、自分たちが左側やリベラルの人たちから差別されていると訴えると、その言葉自体がまるで冗談のように扱われてしまいます。

そうなってくると、その言葉を使って説明すべき、移民や黒人の有権者、トランスジェンダーやノンバイナリーの若者などに対する “othering” を、こちら側が言葉にすることさえ難しくなってしまいます。




同じことは “fake news” という言葉にも起こりました。

トランプは2016年の大統領選挙後、自分にとって批判的な報道をする “fake news” と繰り返し呼びました。

しかし、この “fake news” という言葉は、本来、本物のニュースに見せかけながら、実際には意図的につくられた偽の記事やプロパガンダを説明するために使われていた言葉です。



ところが “fake news” という言葉そのものが政治的な攻撃の道具として使われるようになると、私たちは今度は、本当に存在する偽情報やプロパガンダを説明するための便利な言葉まで使いにくくなってしまうことになるわけです。

陰謀論についても同じです。

何かを批判すれば「陰謀論だ」と片づけられてしまい、逆に本当の陰謀や組織的な情報操作まで「どうせ陰謀論でしょ」と笑われてしまったら、私たちは何が本当に起きているのかを語るための言葉を失ってしまいます。

何でも茶化されることが普通になってしまうと、何が重要なのかを真剣に語ることが難しくなってしまうという危険性が出てくるのです。


フィットネス、ワクチン、そしてファシズム

image by scottweb

健康のために運動をしたり、食事や睡眠に気をつけたりすることは、何も悪いことではありません。


しかし、本書の中ではフィットネスや健康、自己改善への関心が、時として政治的な思想と結びついていくことが書かれています。



例えば、「自分の身体は自分で管理する」という考えが、「政府に自分の身体のことを決めさせない」という主張へと変わり、前にも述べましたが、ワクチンや公衆衛生政策への反発につながっていくことがあります。

ワクチンと自閉症を結びつけてしまう科学的な根拠のない主張や、「強い身体や免疫を持っていたらワクチンなんて必要ない」といった考えも、「自由な身体」という物語の中に組み込まれていきます。




… そして著者が警戒しているのは、その先にあるものです。



実は、健康で強い身体を理想とする考え方と、ファシズムや優生思想には歴史的なつながりがあります。




第二次世界大戦前のアメリカでは、初期のフィットネスやボディビルの文化の一部が優生思想と結びつき、「より優れた人間」をつくることに関心を持っていました。また、ナチス・ドイツでも、健康な身体や自然な生活が、「より優れた人間」をつくるという思想と結びついていたのです。

もちろん、現代のウェルネスの文化がそのままファシズムにつながるというわけではありませんが、問題は「私たちは、より健康な体を持ち、より優れた人間になることができる」という考えが極端になった時です。



「自分はオーガニックなもの、添加物の入っていないものを選んで健康的な食事をしている」という意識が、いつの間にか「健康的でない食事をしている人は劣っている」という考えにつながってしまう。


あるいは、「自分は常に鍛えているから免疫力が強い」という考えが、いつの間にか「免疫力の弱い人間は劣っている」という、同じ人間を見下した考えへと変わってしまう。

「自分は最適化されている」という考えは、裏を返せば、「最適化されていない人は劣っている」という考えにもなり得るわけです。



つまり、過去に起こった出来事を考慮に入れると、「自分の身体を自分で管理する」という個人的な自己改善の思想が、政治的な物語と結びつくことで、いつの間にか人間を「より優れた人間」と「そうでない人間」に分ける思想に変わっていってしまう、と著者は述べているのです。


鏡の裏側にいる「影」

image by stocksnap

「鏡の裏側」の世界に関して、ここまで、陰謀論、Diagonalism、承認欲求、分断、そして身体や自由をめぐる思想について見てきましたが、最後に、著者がたどり着いた考えについて触れておきます。



それは…

「鏡の裏側」にいるのは、本当に「向こう側」の人たちだけなのか?


という問いです。

“Doppelganger” という存在は、「自分の分身」、または「もう一人の自分」として、昔からいろんな物語に登場してきました。


しかしその存在は、単に自分とは正反対の誰かではなくて、私たちの中にも、他人を支配したり排除したりするような気持ちが生まれる可能性があることを示しているのではないか?という問いです。

つまり、ファシズムや専制政治は、ある日どこかから突然やってくるものではなく、「優越感」や「自分たちこそが正しい」と思いたい気持ち、他者よりも自分たちを「特別な存在」だと考えたい欲望など、私たちが日常的に持っている感情にも深く関係しているのでは?という事です。



そして、その気持ちが強くなりすぎると、自分とは違う人間を「間違った人」、「劣った人」と見なすようになってしまう。

これまで見てきた「身体」の話も、ここにつながっています。


自分を最適化することが、いつの間にか「自分はより優れた人間だ」という感覚に変わってしまう。


そして、それは身体だけの話ではなく、政治や社会、ビジネス、そしてアイデンティティーにおいても、私たちは「自分たちは誰なのか」をはっきりさせるために、いつの間にか「自分たちではない人」を創り上げてしまう。


この部分が、著者がこの本を通して見ている問題の核心なのだと思います。


もともと人間というのは「自分らしさ」を守りたいと思う一方で、他人とも上手くつながって、コミュニティーの一員でありたいという気持ちを持っています。

しかしながら、現代社会においては「自分は他の人たちとは違う」ということが強く評価される一方で、連帯や助け合いは、社会全体が個人や個体にフォーカスしすぎているため、それほど大きな価値を与えられていません。



だからこそ著者は、社会の大きな問題を、個人が自分自身を改善することだけで解決しようとするのではなく、他人との間につくってしまっている境界を少し緩めて、共通する目的のために一緒になることが必要だと考えています。


結局のところ、「鏡の裏側」にいる “Doppelganger” は、私たちとは全く違う誰かではないのかもしれません。

「向こう側の人たちは、何であんなに狂った考えを持つことができるんだ?」「常識から考えたら、ヤツらのやっていることは信じられない。」と思うのではなく、私たち自身の中にも同じようなものがあるのではないのかと考えてみること。

自分と相手との境界を完全に消す必要はないとしても、その違いを超えて、共通する問題のために一緒に行動できる場所を作ること。


誰かと仲違いした時なんかは、その相手と接触しない時間が長くなればなるほど、それぞれの側で想像が広がっていって、次第に恨む気持ちが増大し、関係がさらに悪くなってしまうなんてケースもあるので、やはり今の時代、「コミュニティー精神を持って積極的に人と知り合う」というのはとても大事なことだと考えさせられました。


それではまた。

コンカズ

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